「危険な力と、希望の犬」
もとしましょう

 三条会の演劇「つつじの乙女」は、観てきたというより、行ってきたという方が近い。
 夕暮れの冷たくなる空気。色の変わっていく山々。闇に吸い込まれる声。あれから一ヵ月近く経ってしまったが、思い出そうとすると、身体的な感覚として思い起こされる。
 「つつじの乙女」というのは、この辺の地域に古くから伝わる民話だ。あらすじはあえて省くが、とにかく、その民話を体験する仕組みが、今回の演劇だった。

 コンクリート打ちっぱなしの三階建ての小さなビル。一階広間の中央にはバイオリンが置かれ、その周りを椅子が囲んでいた。何かが動く前の、静かな空気。待っている人々の静かな熱が、小さな会場を包んでいた。
 女性が物語のあらすじを語りだした。物語の導入部分までを語って「はい! ここで準備運動してもらいます!」と空気は一変し、バイオリンでラジオ体操が奏でられ、懐かしい動きを促された。会場は一気に笑いに包まれる。添乗員さながらの旗を持った女性に誘われ、外の非常階段を屋上まで登る。
 屋上に上がると、そこには、この民話の実際の舞台である太郎山が、幽玄にそびえる。その山を背景に、一本の赤い糸が左右に張られ、右端には男、左端に女がやってきて、二人の掛け合いの中で物語は進行した。実際の物語の進行に合わせて、僕らは三度、一階と屋上を行き来した。一階で物語の続きが語られ、また屋上で演じられる、という具合。
 夕暮れに始まったその物語は、刻々と深まっていく闇とともに、狂気を増し、演者の様相も憑依されたかのような色合いを帯び、観客は、身体感覚を伴うことで、着実に物語の世界へと入り込んだ。しかしその一方で、一階では、ラジオ体操や、ちょっとしたアトラクションを通して、笑いの量が増えていった。

 つまり、屋上で、物語世界(非現実)への引力が強くなるごとに、一階で現実に引き戻す力も強くなっていた。これが、意図的だとしたら、ものすごいことだと思った。この劇団は見えないものを扱っている。それは、とても危険な誘導。演劇という「意識誘導装置」を扱う未来人。あるいは古来人か。
 物語の狂気は極まり、クライマックスでは、男が女を殺してしまう。刻々と変わりゆく舞台(自然環境や演者や物語)の中で、唯一の変わらない色、二人の愛の象徴でもあった赤い糸は、男によってプツリと切られ、物語は終焉を迎えた。
 赤い糸は、危険な力を持った意識誘導装置が、暴走しないように、張られた結界のような役割をしていたのかもしれない。糸が切られ、物語が救いようのない終焉を迎えたその時、僕の意識は、行き場をなくしたように思う。自分の気持ちをどう処理すればよいか分からない。というより、自分が今、どこにいるのかが分からない。唖然とし、倒れた女を眺めていた時、エンディング曲が流れ、登場したのは、なんと、犬。
 演出家の関美能留さんに誘われ、現れた犬は、走って欲しいという演出家の意図に反して、座り込んでしまう。わっと、会場は笑いに包まれ、最後は犬と、主人公の女が抱き合って、さまよえる意識は、決着を見た。キャスト全員が、主人公の女の名前を叫び、幕が下ろされた時、僕は言いようのない安堵感を感じた。あれは何だったのだろうか。

 アフタートークでは、面白い話がたくさんあったが、関美能留さんの話では、犬の劇団員が欲しかったとのこと。もし、あのまま犬が登場せずに物語が終わっていたら、僕らは、物語の世界に取り残され、いわば過去にタイムスリップした未来人が、取り残されるようなことになったように思う。あそこで、人間の意図に従わない存在が現れ、自由気ままに振る舞うことで、僕らは意図的な意識のタイムスリップから逃れ、そして、現実(犬)と非現実(演者)が抱き合うことで(演者もその瞬間は素の笑顔になっていた)、意識は戻るべきところへ戻った。そういうことだったように思う。

 人間は人間だけで生きてはいけない。人間を人間たらしめ、動かしているのは、人間以外の存在に他ならない。我々を動かしているその「人間以外の力」を、存分に利用しながら意識を完全に誘導し、そして、「人間ではない存在」によって完全に引き戻す。関さんがどのような潜在的意図で、犬を劇団員にしたいと思ったのかは、分からないが、それはとても危険な力を持ってしまった人間の、本能的な要請のようにも感じる。
 意識というのは危険だ。我々の意識は平気な顔して時空を超え、集まり、流れ、何かを動かしていく。戦争も平和も、僕らの意識が作りだしている。兵器を作るのも、使うのも意識の仕業なのだ。我々の意識はもはや、世界を一発の爆弾で消し去る力を持っている。
 我々は、これにどう抗うのか。それは、世界規模の大きな話のように見えるが、実はその答えは、我々の中にこそある。
 演劇は危険だ。意識を集め、作り出すことができる。その力は、平気で時空を超えていく。演劇や物語の力を恐れ、検閲を行った権力者たちの危惧は当たっている。志半ばで、鞭に倒れた沢山の表現者たちを想う。

 時代は、表現者たちを押しのけ、もはや我々小さな民衆には、科学や権力やその暴走に、抗う術も力もないように見える。
 しかし、僕は、勘違いしていた。民衆の力は、死んではいなかった。むしろ、こんなにも強かに、こんなにも自由自在に、強大な力と共にあり、そして、確かな希望をも、着実に育てていたのだ。一匹の犬と共に。

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