『熱海殺人事件~長野県バージョン~』レビュー

松本和也/神奈川大学

 上田街中演劇祭2018のエンディングを飾る、アートひかり×二口大学『熱海殺人事件~長野県バージョン~』(作=つかこうへい/演出=仲田恭子)を犀の角で観劇した。破天荒で破壊的な原作の熱量に抗して、開幕から狂気を孕んだかのようなエネルギッシュな舞台表現が展開され、スポーツをした後のような心地よい疲労と爽快感、そして「演じること」の困難とその奥深さ――「演じること」の業を、じわじわと体感させられる舞台だった。
 つかこうへいの代表作(のひとつ)である『熱海殺人事件』は、工員・大山金太郎が女工を熱海で絞め殺したという文字通りの「熱海殺人事件」に対して、木村伝兵衛、熊田留吉、片桐ハナ子といった曲のある刑事たちが、(犯人逮捕を目指すのではなく)殺人犯が殺人犯らしく振る舞えるように(演技!)、飴と鞭とを駆使して導いていく物語である、つまり、刑事たちが金太郎を熱海殺人事件の犯人らしく演出していく過程の総体が、『熱海殺人事件』なのだ。従って、俳優はそれぞれの役を演じるだけでなく、その役を通じて殺人犯「らしさ」を模索していくという、文字通り《演技論仕立て》(鈴木忠志)の作品となっている。
 さて、今回は潤色:荒井洋文、演出:仲田恭子による『熱海殺人事件~長野県バージョン~』である。劇場に入ると、舞台には畳が敷かれ、ちゃぶ台が置かれた和室の設え、舞台の両脇にはドラムセット、客席後方には和太鼓が置かれている。チャイコフスキー「白鳥の湖」が流れ、ドラムが鳴り響き、否応なく高められたボルテージと争うかのように、(木村伝兵衛改め)杉山伝兵衛の強くて速い台詞が、この劇の開幕を告げる。その後も、基本的にはこうしたハイ・テンションをベースに、つかこうへいの毒気のある言葉が、現在を生きる俳優の身体──声を通じて、理不尽でテンポのよい会話劇として上演されゆき、それを彩る暴力的な肉体/言葉の嵐が、ねじりあげるように舞台の密度を高めていく。
 もちろん、長野県バージョン固有の演出もみられる。先にあげた和室という舞台設定や打楽器の演奏はもとより、「熱海」は「上山田」に、「海が見たい」という女工の台詞は「高原の風に吹かれたい」へ、といった具合に、作中の設定が長野県に置き換えられているのだ。さらに注目したいのは、登場人物名の苗字が、俳優のそれに変更されていた点である。こうした、一見些細ともみられる操作は、俳優が『熱海殺人事件』における役を演じるのではなく、生身の身体ごと『熱海殺人事件』へ入っていくことを、まずは意味する。つまり、俳優たちは登場人物を演じるというよりは、劇世界の中で、登場人物と自分自身とを生きる演技が求められるのだ。しかもそれは、つかこうへいによるクリエイションのエッセンスでもある。唐十郎は、よく知られたつかの稽古の様相を、次のように語っている。

 彼は稽古場で台本に頼らない。この役者はどう生きてきたのか、どんな声を出し、どんな肉体言語を持って生きてきたのかを探りあてようとします。そしてそれらの問いを役者へぶつけながら、台詞をつくってきたといいます。そしてその「舌」から生まれてくる芝居は、役者の物語でありながら──それをその場で生み出していく中で、自分の体験を追体験していくという──つか君自身の物語となる。そうやって組み上がった世界を、役者に再体験させることを繰り返して彼は芝居を作ってきた。そうして演出家と役者の戦いによって生まれた作品を、観客が再々体験するという仕掛けになっているんじゃないでしょうか。(「彼もまた特権的なる……」、『文藝別冊 つかこうへい 涙と笑いの演出家』河出書房新社、2011)

 もちろん、長野県バージョンにおいても、原作の台詞はそれとしてある。ただし、劇中劇としての構造をもつ『熱海殺人事件』に対して、没入するのでもなく、虚構と現実とを対象化して区別するのでもなく、つかがそのクリエイションに際して俳優の人生を半ば強引に劇中も持ちこんだように、演出家・仲田恭子は名前の操作によって、絶妙な距離を劇全体に仕掛けていたのだ。そのことによって、長野県バージョンでは『熱海殺人事件』という物語に、役者の物語が重ねられることになり、その重ね方に演出家の物語もまた重ねられていく。しかもそれが、長野県上田市で上演されることで、観客はその全てを、他ならぬ長野県の物語(=長野県バージョン)として、観劇──体験していくことになる。
 こうした絶妙な距離は、男/女や都会/地方、職工をめぐる差別的言辞を含め、圧倒的な理不尽さと暴力性を擁した『熱海殺人事件』に対して、複数の仕方で確保される。ひとつは、時折差し挟まれる、しらじらとした間、毒気を抜くようなネタ(『北の国から』、宮尾すすむetc)、奇抜な衣装等々と、それらによってもたらされる客席の笑いである。もうひとつは、行き過ぎた感さえある大音量、光の明暗、俳優の言動の速さ──強さと、それらによってもたらされる、台詞(の意味)の是非をこえたスペクタクルである。いずれも、それ自体不条理ではある『熱海殺人事件』の物語内容へ、観客を強引に没入させていくと同時に、それを禁止する。こうして観客は、殺人事件らしさ──殺人犯らしさを求め続ける『熱海殺人事件』の不条理さを、不条理と思いつつ積極的に肯定していくことになるだろう。
 こうした『熱海殺人事件~長野県バージョン~』では、それゆえに、正しく2時間の上演時間が必要であり、それこそが適切な上演時間である。刑事たちが(大山金太郎改め)水嶋金太郎を殺人犯へと演出し、それによって金太郎が殺人犯へと成長し、その過程の総体を観客が目撃──承認していくのに、それは必要かつ適切な時間なのだ。実際、仲田恭子による「熱海殺人事件 演出ノート」(当日パンフレット)には次の一節が読まれる。
 演劇活動をしていると、時々こういう長い芝居を創る機会がある。もちろんやりようで短く、なんていう場合も題材によってはあるだろうが、この芝居はこの時間があってこそ、その時間をかけることでしか見せられないことが多いように思う。
 こうして、劇場を「笑いと興奮の渦」に巻き込んだ『熱海殺人事件 長野県バージョン』には、だから、俳優たちのエネルギッシュな演技が生成するワイルドな煽情性ばかりでなく、よく計算された演出の賜物として、むしろ端正といってよい佇まいもまた感じられた。

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